はじめに
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平城遷都と古事記の成立




 ▲復元された大極殿と北極星(撮影:2015年7月14日 関根聡)

『古事記』とは何か。 それを知るためには、『古事記』序や本文の研究と共に、『古事記』が成立した時代背景や社会状況を知らなくてはならない。
幸い日本には、延暦16年(797年)に完成した国史『続日本紀』がある。
『続日本紀』は全40巻から成る史書で、文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を通時的に扱っている。
いわば当時の現代史で、時の為政者の思惑が働き、その内容には問題点が多いといわれる。
とはいえ歴史的資料としての価値は極めて高い。
『続日本紀』の研究なくして、8世紀の古代日本史は語れない。
『古事記』(712)研究においても、成立期の歴史を記した『続日本紀』(797)を読み解くことは必要不可欠だ。
それは間違いない。

和銅三年(710)藤原京から平城京への遷都が始まった。
『続日本紀』には、
---和銅三年三月辛酉始遷都于平城以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守
と記されている。

元明天皇は平城宮に移り、藤原不比等と共に新京の建造を推し進めた。
時の左大臣石上麻呂は、藤原京の留守となって天皇の代わりに国政の任を務めることになった。
霊亀元年(715)9月に元正天皇が即位、その時、平城京は国内外に披露される。
それまで藤原京は副都として機能していた。

元正天皇が即位した大極殿は、和銅七年(714)以降に藤原京から移築された。
その事実は、近年、第一次大極殿正殿が復元された際、その土台部で発見された木簡の年記から明らかになった。
平城遷都は、少なくとも、和銅七年まで続いていたのである。

さて国史『日本書紀』は、養老四年(720)5月21日に編纂が終わり完成する。
『続日本紀』には、下記のごとく記されている。

---養老四年癸酉太政官奏諸司下國小事之類以白紙行下於理不穩更請内印恐煩聖聽望請自今以後文武百官下諸國符自非大事差逃走衛士仕丁替及催年料廻殘物并兵衛采女養物等類事便以太政官印印之奏可之頒尺樣于諸國先是一品舍人親王奉勅修日本紀至是功成奏上紀卅卷系圖一卷

長い「小事之類」記事の最後に、「先是一品舍人親王奉勅修日本紀至是功成奏上紀卅卷系圖一卷」と簡単に記されている。
また『古事記』の成立(712)は、『続日本紀』に記事がない。
何故だろう?

歴史とは?
一言でいえば、記された過去である。
誰かが過去について書き著し、それが書き伝えられ、また語り継がれて「歴史」になる。
もとより人業ゆえ、間違いや勘違い、時には嘘もある。
また書かれない史実も多い。
史書や歴史の研究書を読むとき、何が史実で、何が作者の間違いや勘違い、また嘘であるかを見極める必要がある。
書かれなかった事績については、他の文献や資料、考古学の成果などを踏まえて、文脈から行間の史実を探り明らかにしなければならない。
それは、読み手の役割であり、歴史研究者が果たすべき責務だろう。

一例を挙げよう。
昭和61年(1986年)平城京の左京三条二坊で広大な屋敷跡が発見された。
何年かにわたって発掘作業が行われ、その研究成果は『長屋王邸宅跡』(奈良国立文化財研究所1996)としてまとめられた。
この屋敷跡からは大量の木簡が発掘され、その中に「長屋親王宮」などと記されたものがあった。
前代未聞の大発見にマスコミは浮かれ、「長屋王邸発見!」の記事が乱れ飛んだ。
多くの専門家も、その風潮に流されたのである。
平城京の屋敷跡で、主家の名が直接分かる木簡の出土はほとんどない。
左京三条二坊の邸宅跡も同様だ。
出土した木簡の分析から、その邸内には二つ以上の家政機関があったことが分かっている。
一つは、長屋王邸のものだが、主家は当時二品または二位の冠位をもつ者だった。
その事実は、出土木簡の「大書吏」「少書吏」の記述から判明している。
また記述内容から、邸宅の主家は、平城京外にいた。
その事実も、奈良国立文化財研究所編『長屋王邸宅跡』に記されている。
『続日本紀』の記述から考え、この主家に該当する人物は、霊亀元年(715)まで藤原京の留守を勤めた左大臣石上麻呂しかいない。
出土した木簡は、ほとんど和銅年間につくられたものと判明している。
この事実も、左京三条二坊の邸宅が石上邸だったことを裏付ける。


 ▲古代日本史講座資料(作成:2014年3月20日 関根聡)

マスコミは、歴史の捏造に加担しがちである。
戦後、上村春平と梅原猛が、藤原不比等の「隠れた巨人」説を唱え、マスコミが過大報道した結果、その論が通説化した。
多くの学者や専門家も追随、いまも、その論調は変わらない。
左京三条二坊邸発見当時は、右大臣不比等の過大評価最盛期で、左大臣石上麻呂の存在が無視されたのである。
『平城京左京三条二坊邸宅跡』では、左京三条二坊邸の主家を高市皇子(654- 696)とする。
平城遷都時より、10年以上前に亡くなった長屋王の父親だ。
その家督を長屋王が受け継ぎ、新京の一等地に高市皇子の邸宅が造られたとする。
学説として基本的に無理がある。
そんな無理を押し通し、国立奈良文化財研究所の先生たちは、左京三条二坊の邸宅を「長屋王邸」と断定(1992)した。
これは明らかに歴史の捏造だろう。

---和銅三年三月辛酉始遷都于平城以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守

という記述から、石上麻呂は引退したと短絡的に解釈。
いまだに、その誤解は続いている。
石上麻呂は、藤原京の留守となって、天皇の職務を代行した。
平城遷都は霊亀元年(715)の元正天皇即位式で国内外に披露されるまで続き、藤原京も副都として機能していた。
和銅四年(711)三月に多胡郡が置かれ、その事績を顕彰した多胡碑には「石上尊」の名がある。
平川南は、この「尊」表記を研究分析。
多胡郡設置を認める席上、その場に石上麻呂自身がいたことを明らかにしている。
麻呂引退説は、明らかに間違いである。
三条二坊邸の主家が、石上麻呂だったことは疑いない。
左大臣石上麻呂は、8世紀初頭の古代社会において、極めて重要な人物だった。
麻呂の事績を知らずして、古代日本史は語れない。

平城遷都時、藤原京では、国史『日本書紀』の編纂が進んでいた。
その草案は、ほぼ完成していたが、石上麻呂は一時編纂を止め、太安麻呂に命じて別の史書を作らせた。
和銅五年(712)安麻呂は史書を完成させ麻呂に献上する。
その史書こそ『古事記』だった。
私的につくられた野史だったがゆえ、国史『続日本紀』には記されなかった。
ある意味で『日本書紀』の軽視も同様だ。
一見天皇家の史書に見えるが、実は両書とも天皇家を支える貴族や豪族たちの歴史を中心に描かれている。
特に編纂時、権力の中枢にいた権力者たちの思惑や要望が記述内容に反映した。
『日本書紀』巻一に、本文より「一書曰」記が目立ち、『古事記』に氏族伝承の記載が多いのは、それ故の例である。
また『続日本紀』に『古事記』成立が記されず、『日本書紀』が軽んじられたのも、そのためだ。
私は、そう思う。

『古事記』(712)研究において、成立期の歴史を記した『続日本紀』(797)を読み解くことは必要不可欠だ。
また同時代に成立した『日本書紀』(720)や『萬葉集』(8世紀)等との比較研究も避けられない。
  上代、古代を対象とする日本史研究(古代学)は、古代中国の史書を調べ、『古事記』や『日本書紀』、『萬葉集』などと内容を照合、少しづつ歴史的事実を明らかにしていく他しかない。
考古学や書誌学など周辺諸学の研究成果も学際的に取り込むべきだろう。

歴史とは、記された過去。
記するのが人間故、過ちもあれば、嘘や偽りもある。
何が本当で、何が虚偽なのか?
その判断を他人任せにしてはいけない。
自分で史書の原本や研究資料調べ、自分の頭で判断する。
歴史研究の原点は、そこにある。


平成28年(2016)1月1日
古代日本史研究会 関根 聡





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