『続日本紀』を読むポイント




石上麻呂という人物をご存知ですか?
和銅元年(708)に左大臣となり、薨去(717)するまで臣下の最高位にいた物部氏系の貴族です。
この間に平城遷都(710-715)が行われ、古事記が成立(712)しました。
後の国史『続日本紀』(797)には、石上麻呂の事績が簡明に記されています。
原文のテキストをキーワード「石上」で検索しながら、石上麻呂の事績をたどってみましょう。
『続日本紀』を読み解く際、石上麻呂の存在を除くことはできません。
その理由を以下で明らかにします。


初見は、巻1文武四年(700)10月15日の条。
------[原文]以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。

石上麻呂は、筑紫総領になりました。
筑紫総領とは、大宝律令以前の体制下で、筑紫をはじめとする西国の軍事を司る長官のことです。
この時の配下を分かりやすく整理してみましょう。

筑紫総領 直大壹石上朝臣麻呂。
  大貳 直廣參小野朝臣毛野
周防総領 直廣參波多朝臣牟後閇
吉備総領 直廣參上毛野朝臣小足
常陸守  直廣參百濟王遠寶

副官は小野毛野。吉備総領の上毛野小足と共に、東国人だったようです。
波多牟後閇も、神奈川県秦野市との関係が匂います。
この時、常陸守の名があるのは、防人の手配が関係するからでしょう。

次に登場するのは、巻1大宝元年(701)3月21日の条。
対馬から金が献上され、元号が「大宝」と改められた時、新たな令による官名位号の改制が始められて、諸王ならび諸臣に新たな官名や階位が与えられました。
有名な大宝律令による施策が始まったのです。

------[原文]對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。」始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。始停賜冠。易以位記。語在年代暦。又服制。親王四品已上。諸王諸臣一位者皆黒紫。諸王二位以下。諸臣三位以上者皆赤紫。直冠上四階深緋。下四階淺緋。勤冠四階深緑。務冠四階淺緑。追冠四階深縹。進冠四階淺縹。皆漆冠。綺帶。白襪。黒革■。其袴者。直冠以上者皆白縛口袴。勤冠以下者白脛裳。」授左大臣正廣貳多治比眞人嶋正正二位。大納言正廣參阿倍朝臣御主人正從二位。中納言直大壹石上朝臣麻呂。直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。直大壹大伴宿祢安麻呂。直廣貳紀朝臣麻呂正從三位。又諸王十四人。諸臣百五人。改位号進爵。各有差。」以大納言正從二位阿倍朝臣御主人爲右大臣。中納言正正三位石上朝臣麻呂。藤原朝臣不比等。正從三位紀朝臣麻呂。並爲大納言。▼是日罷中納言官。

この時、多治比政権下のトップ6が明記され、新たな冠位が記されています。

左大臣正廣貳多治比眞人嶋→正正二位。
大納言正廣參阿倍朝臣御主人→正從二位。
中納言直大壹石上朝臣麻呂→
直廣壹藤原朝臣不比等→正正三位
直大壹大伴宿祢安麻呂→正正三位
直廣貳紀朝臣麻呂→正從三位。

諸王十四人。諸臣百五人。改位号進爵。各有差。

この日、石上麻呂と藤原不比等は中納言になりましたが、その日のうちに大納言に昇進。
なぜか中納言官は廃止されます。
奇妙ですね。
なぜかの究明は別に行うとして、『続日本紀』における石上麻呂の事績を追いましょう。



次に登場するのは、巻2大宝元年(701)7月21日の条。

------[原文]勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。隨功等第亦賜食封。並各有差。又勅。先朝論功行封時。賜村國小依百廿戸。當麻公國見。縣犬養連大侶。榎井連小君。書直知徳。書首尼麻呂。黄文造大伴。大伴連馬來田。大伴連御行。阿倍普勢臣御主人。神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸。若櫻部臣五百瀬。佐伯連大目。牟宜都君比呂。和爾部臣君手四人各八十戸。凡十五人。賞雖各異。而同居中第。宜依令四分之一傳子。又皇大妃。内親王。及女王。嬪封各有差。▼是日。左大臣正二位多治比眞人嶋薨。詔遣右少弁從五位下波多朝臣廣足。治部少輔從五位下大宅朝臣金弓。監護喪事。又遣三品刑部親王。正三位石上朝臣麻呂。就第弔賻之。正五位下路眞人大人爲公卿之誄。從七位下下毛野朝臣石代爲百官之誄。大臣。宣化天皇之玄孫。多冶比王之子也。

親王以下、その官位に準じて食封が与えられ、壬申年の功臣にも功績に応じて食封が与えられた。
功臣の筆頭には、村國小依の名が挙げられ、120戸が与えられている。
続いて下記10人には、各100戸。

當麻公國見。
縣犬養連大侶。
榎井連小君。
書直知徳。
書首尼麻呂。
黄文造大伴。
大伴連馬來田。
大伴連御行。
阿倍普勢臣御主人。
神麻加牟陀君兒首。

さらに下記4人には、80戸。

若櫻部臣五百瀬。
佐伯連大目。
牟宜都君比呂。
和爾部臣君手。

上記15人は、賞の違いや功績に関わらず、令の規定によって子孫に4分の1を伝えてよしと但し書きがある。
その後に、親王以下への封記が「皇大妃。内親王。及女王。嬪封各有差」が付け足されている。
対象となった皇大妃、内親王、女王、嬪の名は一人も記されていない。
何故でしょう?

その答えは、続く条記に示唆されています。
------[原文]▼是日。左大臣正二位多治比眞人嶋薨。詔遣右少弁從五位下波多朝臣廣足。治部少輔從五位下大宅朝臣金弓。監護喪事。又遣三品刑部親王。正三位石上朝臣麻呂。就第弔賻之。正五位下路眞人大人爲公卿之誄。從七位下下毛野朝臣石代爲百官之誄。大臣。宣化天皇之玄孫。多冶比王之子也。

この日、左大臣多治比嶋が薨去。
波多廣足と大宅金弓が喪事を監護し、刑部親王と石上麻呂が天皇からの賜物を届けた。
続いて下路大人が公卿について誄し、下毛野石代が百官につて誄した。
大臣についての薨伝は、「宣化天皇之玄孫。多冶比王之子也」と極めて簡略に記されています。

重要なのは、この時、大納言石上麻呂が政権のナンバー2になったこと。
そして麻呂の生い立ちなのです。
石上麻呂は、もともと「物部連麻呂」といい、初見は『日本書紀』巻28の天武天皇元年(672)7月23日の条にあります。
ちょっと長いですが、全文を引用します。

------[原文]男依等斬近江將犬養連五十君及谷直塩手於粟津市。於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。且一二舍人從之。』初將軍吹負向乃樂至稗田之日。有人曰。自河内軍多至。則遣坂本臣財。長尾直眞墨。倉墻直麻呂。民直小鮪。谷直根麻呂。率三百軍士距於龍田。復遣佐味君少麻呂。率數百人屯大坂遣鴨君蝦夷率數百人守石手道。▼是日。坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍知財等來。以悉焚秋税倉皆散亡。仍宿城中。會明臨見西方。自大津丹比兩道軍衆多至。顯見旗■。有人曰。近江將壹伎史韓國之師也。財等自高安城降。以渡衞我河與韓國戰于河西。財等衆少不能距。先是。遣紀臣大音令守懼坂道。於是。財等退懼坂而居大音之營。是時。河内國司守來目臣塩篭有歸於不破宮之情。以集軍衆。爰韓國到之。密聞其謀而將殺塩篭。々々知事漏。乃自死焉。經一日近江軍當諸道而多至。即並不能相戰。以解退。▼是日。將軍吹負爲近江所敗。以特率一二騎走之。逮于墨坂遇逢菟軍至。更還屯金綱井。而招聚散卒。於是。聞近江軍至自大坂道而將軍引軍如西。到當麻衢與壹伎史韓國軍戰葦池側。時有勇士來目者。拔刀急馳直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之。追斬甚多。爰將軍令軍中曰。其發兵之元意非殺百姓。是爲元凶。故莫妄殺。於是。韓國離軍獨逃也。將軍遥見之。令來目以俾射。然不中而遂走得免。焉。將軍更還本營。時東師頻多■。則分軍各當上中下道而屯之。唯將軍吹負親當中道。於是。近江將犬養連五十君自中道至之留村屋。而遣別將廬井造鯨。率二百精兵衝將軍營。當時麾下軍少以不能距。爰有大井寺奴名徳麻呂等五人。從軍。即徳麻呂等爲先鋒以進射之。鯨軍不能進。▼是日。三輪君高市麻呂。置始連菟。當上道戰于箸陵。大破。近江軍而乘勝。斷鯨軍之後。鯨軍悉解走。多殺士卒。鯨乘白馬以逃之。馬墮泥田不能進行。則將軍吹負謂甲斐勇者曰。其乘白馬者廬井鯨也。急追以射。於是甲斐勇者馳追之。比及鯨。々急鞭馬。々能拔以出泥。即馳之得脱。將軍亦更還本處而軍之。自此以後。近江軍遂不至。』先是。軍金綱井之時。高市郡大領高市縣主許梅。黴忽口閇而不能言也。三日之後。方著神以言。吾者高市社所居。名事代主神。又牟狹社所居。名生靈神者也。乃顯之曰。於神日本磐余彦天皇之陵奉馬及種々兵器。便亦言。吾者立皇御孫命之前後以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。且言。自西道軍衆將至之。宜愼也。言訖則醒矣。故是以便遣梅而祭拜御陵。因以奉馬及兵器。又捧幣而禮祭高市。身狹二社之神。然後。壹伎史韓國自大坂來。故時人曰。二社神所教之辭適是也。又村屋神著祝曰。今自吾社中道軍衆將至。故宜塞社中道。故未經幾日。廬井鯨軍自中道至。時人曰。即神所教之辭是也。軍政既訖。將軍等擧是三神教言而奏之。即勅登進三神之品以祠焉。

天武天皇元年(672)7月23日の条は、功臣の筆頭に挙げられた「村國小依」の別名「男依」から始まっています。
男依らは、粟津市で近江将の犬養五十君と谷直塩手を斬った。
ここに至り、大友皇子は逃げる場所もなく、山前に隠れて自ら首を括った。
その時左右大臣や群臣はみな散亡し、従っているの物部連麻呂と一人二人の舍人のみだった。
つまり石上麻呂は、大友皇子に仕えた敗軍の将だったのです。
その麻呂が、30年後、朝廷のナンバー2になった。
壬申の乱における功臣が、左大臣多治比嶋の薨去に際して加封された理由でしょう。

ところで天武天皇元年(672)7月23日の条は、非常に不自然な記述です。
壬申の乱における功臣の代表格「村國小依」は、姓が省略されて「男依」という別名で記されています。
大友皇子の最後は、「大友皇子走無所入。乃還隱。以自縊焉」の一文のみ。
その後で話は乱の緒戦に戻り、敗軍の将「壹伎史韓國」について事細かに記されています。
一日の条記に、「韓國」の名は6回も記され、うち半数の3回は「壹伎史韓國」とフルネームで書かれている!
何故でしょう?
『日本書紀』や『続日本紀』に石上麻呂麻呂が登場する度、なぜか「?」がある。
何故か?の考察は別項に譲り、とりあえず麻呂の事績を追いましょう。



次に麻呂が登場するのは、巻2大宝2年(702)8月16日の条です。
------[原文]以正三位石上朝臣麻呂爲大宰師。

石上麻呂が大宰師になった。
この時、麻呂は大納言であり、朝廷で重要な政務を担っていました。
この職は明らかに遙任です。
ただし後の遙任とは異なり、大納言職との兼務でした。
だれか分かりませんが副官たちが大宰府に赴き、麻呂の指示に従い新たな大宰府を造っていったのでしょう。
そもそも石上麻呂は、旧体制下で最後の筑紫総領でした。
新たな体制下でも、大宰師を兼務し、生まれ変わる大宰府の造営を行った。
大宰府は、石上麻呂が造った。
それは間違いようのない歴史的事実なのです。



次に登場するのは、大宝三年(703)閏4月の条。

------[原文]大赦天下。饗新羅客于難波舘。詔曰。新羅國使薩■金福護表云。寡君不幸。自去秋疾。以今春薨。永辞聖朝。朕思。其蕃君雖居異域。至於覆育。允同愛子。雖壽命有終。人倫大期。而自聞此言。哀感已甚。可差使發遣弔賻。其福護等遥渉蒼波。能遂使旨。朕矜其辛勤。宜賜以布帛。▼是日。右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂等弔賻之。

天下に大赦を行った日、文務天皇は新羅孝昭王の薨去を伝えにきた福護に哀悼の意を表し、その責務を労った。
重要なのは、この日、右大臣阿倍御主人が薨去、石上麻呂らが弔賻したとの記述。
『続日本紀』の「是日」記は要注意!
すでに左大臣は空位で、この日、右大臣の薨去により、石上麻呂は朝廷のトップとなった訳です。
大赦天下の理由は、その事実を大赦を通して告知することでした。



さて次は、巻3慶雲元年(704)1月7日の条。
右大臣阿倍御主人薨去の翌年、石上麻呂は右大臣となり、実質的に朝廷のトップに立ちました。
この時、長屋王をはじめ、石上政権を支える官僚が官位を与えられ名を連ねています。

------[原文] 詔以大納言從二位石上朝臣麻呂爲右大臣。无位長屋王授正四位上。无位大市王。手嶋王。氣多王。夜須王。倭王。宇大王。成會王並授從四位下。從六位上高橋朝臣若麻呂。從六位下若犬養宿祢檳榔。正六位上穗積朝臣山守。巨勢朝臣久須比。大神朝臣狛麻呂。佐伯宿祢垂麻呂。從六位下阿曇宿祢虫名。從六位上采女朝臣枚夫。正六位下太朝臣安麻呂。從六位上阿倍朝臣首名。從六位下田口朝臣益人。正六位下笠朝臣麻呂。從六位上石上朝臣豊庭。從六位下大伴宿祢道足。曾祢連足人。正六位上文忌寸尺加。從六位下秦忌寸百足。正六位上佐太忌寸老。漆部造道麻呂。上村主大石。米多君北助。王敬受。從六位上多治比眞人三宅麻呂。正六位上臺忌寸八嶋並授從五位下。

分かりやすく整理すると、
大納言從二位石上朝臣麻呂→右大臣

无位長屋王→正四位上
无位大市王。手嶋王。氣多王。夜須王。倭王。宇大王。成會王。→從四位下
從六位上高橋朝臣若麻呂→從五位下
從六位下若犬養宿祢檳榔→從五位下
正六位上穗積朝臣山守→從五位下
正六位上巨勢朝臣久須比→從五位下
正六位上大神朝臣狛麻呂→從五位下
正六位上佐伯宿祢垂麻呂→從五位下
從六位下阿曇宿祢虫名→從五位下
從六位上采女朝臣枚夫→從五位下
正六位下太朝臣安麻呂→從五位下
從六位上阿倍朝臣首名→從五位下
從六位下田口朝臣益人→從五位下
正六位下笠朝臣麻呂→從五位下
從六位上石上朝臣豊庭→從五位下
從六位下大伴宿祢道足→從五位下
從六位下曾祢連足人→從五位下
正六位上文忌寸尺加→從五位下
從六位下秦忌寸百足→從五位下
正六位上佐太忌寸老→從五位下
正六位上漆部造道麻呂→從五位下
正六位上上村主大石→從五位下
正六位上米多君北助→從五位下
正六位上王敬受→從五位下
從六位上多治比眞人三宅麻呂→從五位下
正六位上臺忌寸八嶋→從五位下

長屋王は、この条記が初出。
高市皇子の嫡男であるため无位から正四位上となり、麻呂に庇護されて後に政権の後継者になります。
從四位下になった7人の王も、それぞれに庇護する豪族がいたと推測できます。
以下、六位の官僚が23人、大夫と呼ばれる五位以上の貴族に。
『古事記』の編纂者である太安麻呂や麻呂の嫡男石上豊庭も、この日に初登場しています。
中でも、長屋王と多治比三宅麻呂は要注意の人物。
何故か?
この考察も別に譲り、引き続き麻呂の事績をたどります。



次に石上麻呂が登場するのは、巻3慶雲元年(704)1月11日の条。
長親王や舎人親王など5人の親王、また石上麻呂と藤原不比等が益封され、三位以下五位以上の貴族にそれぞれ益封があった。

------[原文] 二品長親王。舍人親王。穗積親王。三品刑部親王益封各二百戸。三品新田部親王。四品志紀親王各一百戸。右大臣從二位石上朝臣麻呂二千一百七十戸。大納言從二位藤原朝臣不比等八百戸。自餘三位已下五位已上十四人各有差。

それぞれの益封は、

二品長親王・・・二百戸
二品舍人親王・・・二百戸
二品穗積親王・・・二百戸
三品刑部親王・・・二百戸
三品新田部親王・・・一百戸
四品志紀親王・・・一百戸
右大臣從二位石上朝臣麻呂・・・二千一百七十戸
大納言從二位藤原朝臣不比等・・・八百戸

三位以上五位以上の14名・・・戸数不明。

右大臣石上麻呂の益封は大納言藤原不比等の2倍以上、親王の10倍、20倍以上だった。
当時、麻呂の功績評価がいかに高かったか、一目瞭然でしょう。



さて次に石上麻呂が登場するのは、巻4和銅元年(708)1月朔11日の条。
武藏國秩父郡が和銅を献上。
元明天皇は詔して、和銅の産出を喜び、慶雲五年を和銅元年と改め、冠位を与えるべき人々に叙位し天下に大赦した。
重要な情報は、いつものごとく▼是日以下に記されている。
原文を眺めてから整理してみよう。

------[原文] 武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命〈乎。〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原〈由〉天降坐〈志。〉天皇御世〈乎〉始而中今〈尓〉至〈麻■尓。〉天皇御世御世天〈豆〉日嗣高御座〈尓〉坐而治賜慈賜來食國天下之業〈止奈母。〉隨神所念行〈佐久止〉詔命〈乎〉衆聞宣。如是治賜慈賜來〈留〉天〈豆〉日嗣之業。今皇朕御世〈尓〉當而坐者。天地之心〈乎〉勞〈弥〉重〈弥〉辱〈弥〉恐〈弥〉坐〈尓〉聞看食國中〈乃〉東方武藏國〈尓。〉自然作成和銅出在〈止〉奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗〈乃〉相于豆奈〈比〉奉福〈波倍〉奉事〈尓〉依而。顯〈久〉出〈多留〉寳〈尓〉在〈羅之止奈母。〉神随所念行〈須。〉是以天地之神〈乃〉顯奉瑞寳〈尓〉依而御世年號改賜換賜〈波久止〉詔命〈乎〉衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號〈止〉定賜。是以天下〈尓〉慶命詔〈久。〉冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。高年百姓。百歳以上。賜籾三斛。九十以上二斛。八十以上一斛。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。優復三年。鰥寡■獨不能自存者賜籾一斛。賜百官人等祿各有差。諸國國郡司加位一階。其正六位上以上不在進限。免武藏國今年庸當郡調庸詔天皇命〈乎〉衆聞宣。▼是日。授四品志貴親王三品。從二位石上朝臣麻呂。從二位藤原朝臣不比等並正二位。正四位上高向朝臣麻呂從三位。正六位上阿閇朝臣大神。正六位下川邊朝臣母知。笠朝臣吉麻呂。小野朝臣馬養。從六位上上毛野朝臣廣人。多治比眞人廣成。從六位下大伴宿祢宿奈麻呂。正六位上阿刀宿祢智徳。高庄子。買文會。從六位下日下部宿祢老。津嶋朝臣堅石。无位金上元並從五位下。

天皇は、八虐・殺人などの重罪人を除き、すべての罪を許し、高年齢の民に諸品を与え、百官に禄を賜った。
諸国の郡司は、正六位上を越えぬ条件で、すべて一階を加えた。
武蔵国には一年分の庸を免除、献銅した郡の調を免除した。
ただし下記の人々は、詔の枠を超えて昇階する。

四品志貴親王→三品
從二位石上朝臣麻呂→正二位
從二位藤原朝臣不比等→正二位
正四位上高向朝臣麻呂→從三位

正六位上阿閇朝臣大神→從五位下
正六位下川邊朝臣母知→從五位下
正六位下笠朝臣吉麻呂→從五位下
正六位下小野朝臣馬養→從五位下
從六位上上毛野朝臣廣人→從五位下
從六位上多治比眞人廣成→從五位下
從六位下大伴宿祢宿奈麻呂→從五位下
正六位上阿刀宿祢智徳→從五位下
正六位上高庄子→從五位下
正六位上買文會→從五位下
從六位下日下部宿祢老→從五位下
從六位下津嶋朝臣堅石→從五位下
從六位下无位金上元→從五位下

この詔の枠を超えた昇階は、何故行われたのか?
答えは、原文を「石上」で検索し、石上麻呂の事績をたどれば判明します。



巻4和銅元年(708)3月13日の条。
この日、石上麻呂は左大臣となり、名実共に朝廷のトップに上り詰める。
若きパートナー藤原不比等は右大臣に。
二人を支え続けた大伴安麻呂も大納言になる。v 1月朔11日に行われた詔の枠を超えた昇階は、この体制を作るための法的処置だったのです。
原文を確認してから、条文内容を整理してみましょう

------[原文] 以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下弥努王爲治部卿。從四位下多治比眞人池守爲民部卿。從四位下息長眞人老爲兵部卿。從四位上竹田王爲刑部卿。從四位上廣瀬王爲大藏卿。正四位下犬上王爲宮内卿。正五位上大伴宿祢手拍爲造宮卿。正五位下大石王爲彈正尹。從四位下布勢朝臣耳麻呂爲左京大夫。正五位上猪名眞人石前爲右京大夫。從五位上大伴宿祢男人爲衛門督。正五位上百濟王遠寳爲左衛士督。從五位上巨勢朝臣久須比爲右衛士督。從五位上佐伯宿祢垂麻呂爲左兵衛率。從五位下高向朝臣色夫知爲右兵衛率。從三位高向朝臣麻呂爲攝津大夫。從五位下佐伯宿祢男爲大倭守。正五位下石川朝臣石足爲河内守。從五位下坂合部宿祢三田麻呂爲山背守。正五位下大宅朝臣金弓爲伊勢守。從四位下佐伯宿祢太麻呂爲尾張守。從五位下美弩連淨麻呂爲遠江守。從五位上上毛野朝臣安麻呂爲上総守。從五位下賀茂朝臣吉備麻呂爲下総守。從五位下阿倍狛朝臣秋麻呂爲常陸守。正五位下多治比眞人水守爲近江守。從五位上笠朝臣麻呂爲美濃守。從五位下小治田朝臣宅持爲信濃守。從五位上田口朝臣益人爲上野守。正五位下當麻眞人櫻井爲武藏守。從五位下多治比眞人廣成爲下野守。從四位下上毛野朝臣小足爲陸奥守。從五位下高志連村君爲越前守。從五位下阿倍朝臣眞君爲越後守。從五位上大神朝臣狛麻呂爲丹波守。正五位下忌部宿祢子首爲出雲守。正五位上巨勢朝臣邑治爲播磨守。從四位下百濟王南典爲備前守。從五位上多治比眞人吉備爲備中守。正五位上佐伯宿祢麻呂爲備後守。從五位上引田朝臣尓閇爲長門守。從五位上大伴宿祢道足爲讃岐守。從五位上久米朝臣尾張麻呂爲伊豫守。從三位粟田朝臣眞人爲大宰帥。從四位上巨勢朝臣多益首爲大貳。

ここに石上麻呂と藤原不比等の連立政権が誕生しました。
麻呂は不比等の兄代わりとして彼を育て、不比等はその恩と期待に応えて麻呂の施策を実務面で支えました。
私は、二人の関係をそのように捉えています。
不比等は常に麻呂の後を追い、生涯麻呂の地位を越えることはありませんでした。
その視点がどのようにもたらされたかは別項に譲り、政権の組閣内容を整理してみましょう。

神祇伯 從四位上中臣朝臣意美麻呂
左大臣 右大臣正二位石上朝臣麻呂
右大臣 大納言正二位藤原朝臣不比等
大納言 正三位大伴宿祢安麻呂
中納言 正四位上小野朝臣毛野
中納言 從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂
中納言 從四位上中臣朝臣意美麻呂
左大弁 從四位上巨勢朝臣麻呂
右大弁 從四位下石川朝臣宮麻呂
式部卿 從四位上下毛野朝臣古麻呂
治部卿 從四位下弥努王
民部卿 從四位下多治比眞人池守
兵部卿 從四位下息長眞人老
刑部卿 從四位上竹田王
大藏卿 從四位上廣瀬王
宮内卿 正四位下犬上王
造宮卿 正五位上大伴宿祢手拍
彈正尹 正五位下大石王
左京大夫 從四位下布勢朝臣耳麻呂
右京大夫 正五位上猪名眞人石前
衛門督 從五位上大伴宿祢男人
左衛士督 正五位上百濟王遠寳
右衛士督 從五位上巨勢朝臣久須比
左兵衛率 從五位上佐伯宿祢垂麻呂
右兵衛率 從五位下高向朝臣色夫知
攝津大夫 從三位高向朝臣麻呂
大倭守 從五位下佐伯宿祢男
河内守 正五位下石川朝臣石足
山背守 從五位下坂合部宿祢三田麻呂
伊勢守 正五位下大宅朝臣金弓
尾張守 從四位下佐伯宿祢太麻呂
遠江守 從五位下美弩連淨麻呂v 上総守 從五位上上毛野朝臣安麻呂
下総守 從五位下賀茂朝臣吉備麻呂
常陸守 從五位下阿倍狛朝臣秋麻呂
近江守 正五位下多治比眞人水守
美濃守 從五位上笠朝臣麻呂
信濃守 從五位下小治田朝臣宅持
上野守 從五位上田口朝臣益人
武藏守 正五位下當麻眞人櫻井
下野守 從五位下多治比眞人廣成
陸奥守 從四位下上毛野朝臣小足
越前守 從五位下高志連村君
越後守 從五位下阿倍朝臣眞君
丹波守 從五位上大神朝臣狛麻呂
出雲守 正五位下忌部宿祢子首
播磨守 正五位上巨勢朝臣邑治
備前守 從四位下百濟王南典
備中守 從五位上多治比眞人吉備
備後守 正五位上佐伯宿祢麻呂
長門守 從五位上引田朝臣尓閇
讃岐守 從五位上大伴宿祢道足
伊豫守 從五位上久米朝臣尾張麻呂
大宰帥 從三位粟田朝臣眞人
大貳 從四位上巨勢朝臣多益首

見事な組閣ですね。
石上麻呂は、左右大臣亡き後、大宝三年(703)には大納言として朝廷のトップになっていました。
大宝元年(701)3月21日には、中納言になったその日に大納言に。
しかし左大臣になるには、左大臣空位のまま5年以上の歳月をかけています。
何故でしょうか?
その考察は、またまた別項に譲り、石上麻呂の事績をたどります。



同年7月、麻呂は左大臣となって次の一手を打ちます。
巻4和銅元年(708)7月15日の条。
元明天皇は、トップ9を集めて詔して功績を労い、神祇官など諸官を集めて職務の遂行を求めている。
そして、阿倍宿奈麻呂と下毛野朝臣古麻呂など4名の冠位を特別に引き上げた。

------[原文] 召二品穗積親王。左大臣石上朝臣麻呂。右大臣藤原朝臣不比等。大納言大伴宿祢安麻呂。中納言小野朝臣毛野。阿倍朝臣宿奈麻呂。中臣朝臣意美麻呂。左大弁巨勢朝臣麻呂。式部卿下毛野朝臣古麻呂等於御前。勅曰。卿等情存公平。率先百寮。朕聞之憙慰于懷。思由卿等如此。百官爲本至天下平民。埀拱開衿。長久平好。又卿等子子孫孫。各保榮命。相繼供奉。宜知此意各自努力。又召神祇官大副。太政官少弁。八省少輔以上。侍從。彈正弼以上及武官職事五位。勅曰。汝王臣等。爲諸司本。由汝等勠力。諸司人等須齊整。朕聞。忠淨守臣子之業。遂受榮貴。貪濁失臣子之道。必被罪辱。是天地之恒理。君臣之明鏡。故汝等知此意。各守所職。勿有怠緩。能堪時務者。必擧而進。乱失官事者。必无隱諱。因授從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂正四位上。從四位上下毛野朝臣古麻呂。中臣朝臣意美麻呂。巨勢朝臣麻呂並正四位下。文武職事五位已上及女官。賜祿各有差。

ここで昇位した4名は下記の通り。

從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂→正四位上
從四位上下毛野朝臣古麻呂→正四位下
從四位上中臣朝臣意美麻呂→正四位下
從四位上巨勢朝臣麻呂→正四位下

ここでは阿倍宿奈麻呂について、簡単に触れておきましょう。
阿倍朝臣宿奈麻呂は、もと引田朝臣宿奈麻呂と名乗っていました。
大宝2年(702年)持統上皇崩御の際は造大殿垣司を務め、慶雲元年(704)阿倍に改姓、翌2年(705)中納言になっています。 そして慶雲4年(707年)10月3日文武天皇崩御時に造御竃司を務め、石上麻呂の政権下、和銅元年(708)9月30日阿倍宿奈麻呂は、多治比池守と共に平城京司長官に抜擢されます。
平城京の造営にあたっては、一族から有能な者たちを動員したようです。
巻5和銅五年(712)11月20日の条に、その証拠が記されています。

------[原文] 從三位阿倍朝臣宿奈麻呂言。從五位上引田朝臣邇閇。正七位上引田朝臣東人。從七位上引田朝臣船人。從七位下久努朝臣御田次。少初位下長田朝臣太麻呂。无位長田朝臣多祁留等六人。實是阿部氏正宗。与宿奈麻呂無異。但縁居處更成別氏。於理斟酌良可哀矜。今宿奈麻呂特蒙天恩。已歸本姓。然此人等未霑聖澤。冀望。各止別氏。倶蒙本姓。詔許之。

阿倍宿奈麻呂は、引田邇閇など6名の同族を自らと同じく「阿倍」姓としたい旨を願い出て許されています。
興味深いのは「但縁居處更成別氏」という言葉。
もともと彼ら6人は、阿部氏の正宗だったが、縁あって居住した場所の地名を姓としたと言います。
奈麻呂自身も同じだったのでしょう。
都に出て中央官僚として働く場合、地方の「引田」姓より、名の通った「阿部」姓のほうが都合が良かったに違いありません。
歴史の流れは、時に皮肉です。
平城京の荒廃と共に、彼らの存在は忘れ去られ、姓を捨てた出身地でも顕彰されることはありませんでした。

彼らの居住地はどこだったのでしょうか。
大宝三年(703)7月朔5日、從五位下引田朝臣祖父が武藏守となり、その後に銅を産出、朝廷に献上しました。
元明天皇が喜び、元号を和銅に変えたことは前述しました。
東京都あきる野市には、現在も「引田」地名が残り、JR東日本五日市線の駅名「武蔵引田」にもなっています。
また関東には現在、あきる野市の他に在栃木県鹿沼市、群馬県勢多郡富士見村、千葉県市原市、 千葉県いすみ市にも「引田」地名があります。
読みは、みな「ヒキダ」。
巻5和銅五年(712)11月20日の条記から考え、引田一族の居住地が東国にあったことは間違いないでしょう。
石上政権下、式部卿を務めた下毛野朝臣古麻呂も、下野国河内郡を本拠地とする豪族出身でした。
平城京は、東国出身の人々を中心に作られた可能性が高いのです。
この件も別項で詳述したいと思います。v


さて、再び石上麻呂の事績をたどりましょう。
次に登場するのは、巻5和銅3年(710)3月10日の条です。v
------[原文] 始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。

この短い条文は、歴史的に誤読されてきました。
まず「始遷都」と明記されているのもかかわらず、遷都が和銅3年(710)に終わったとされること。
これまでの教科書や歴史書のほとんどが、平城遷都は和銅三年(710)と記しています。

しかし近年、平城京の第一次大極殿が復元された際、その土台部から和銅7年の年季のある木簡が発見されました。
それまで、平城京に大極殿はなかった。
第一次大極殿は藤原京から移築されたものですが、その時期は和銅7年以降だったのです。
逆に言えば、和銅7年の時点まで平城遷都は続いており、藤原京も両都として機能していたことになります。
左大臣石上麻呂は、留守として藤原京に残り、天皇の政務を代行していた。
そう考えられます。
『古事記』や『日本書紀』の編纂も、藤原京で行われたのでしょう。
石上麻呂は、8世紀初めに政権を掌握後、左大臣となるまでに後継者と有能な配下を育成していました。
また対抗勢力を牽制しつつ、確実に協力者を増やしていたようです。

言うまでもなく第一の後継者は、藤原不比等。
その後には、左大臣邸に住まわせ庇護していた長屋王と嫡男豊庭を置くことを不比等に託していた。
大伴安麻呂は、自己の才を弁えてナンバー3の立場を超えようとせず、太安麻呂と共に「安麻呂」派を形成して石上麻呂に安(=仕)えました。
漢字「安」には、古来“仕える”語義があったのです。
下毛野古麻呂は、石上麻呂と同郷の友として命運を共にしました。
その後は、多治比三宅麻呂や穂積老、大野東人たちが継いくはずが、麻呂の嫡男豊庭と不比等の死によって破綻してしまいます。
止まれ。
話を進めすぎず、次なる石上麻呂の事績、麻呂の最後を見てみましょう。



巻7養老元年(717)3月三3日の条。
この条では、石上麻呂の薨去と生い立ちが記され、その後継者たちの名が明記されています。

------[原文] 左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。年七十八。帝深悼惜焉。爲之罷朝。詔遣式部卿正三位長屋王。左大弁從四位上多治比直人三宅麻呂。就第弔賻之。并贈從一位。右少弁從五位上上毛野朝臣廣人爲太政官之誄。式部少輔正五位下穂積朝臣老爲五位已上之誄。兵部大丞正六位上當麻眞人東人爲六位已下之誄。百姓追慕。無不痛惜焉。大臣泊瀬朝倉朝庭大連物部目之後。難波朝衛部大華上宇麻乃之子也。

左大臣石上麻呂は、78歳で薨去。波乱万丈の人生は『日本書紀』の記述に秘められていますが、晩年の事績は『続日本紀』を正しい視点で読み解けば明らかになります。麻呂は、日本史上最も偉大な人物の一人で、まさに古代「日本」をつくった人なのです。その事績は、隠そうにも隠し切れません。麻呂は極めて理想家だったように思えます。実務の才がある藤原不比等をパートナーとし、人望のある大伴安麻呂や下毛野古麻呂を味方につけ、叩き上げの多治比三宅麻呂や穂積老などの配下に支えられて10年数年にわたる安定した長期政権を維持しました。
政策として日本古来の歴史的権威を有する女帝を擁立し、自ら構築した律令制度のもと、武則天の治世に学んで倭国各地から有能な人材を登用。平城遷都を実現して「日本」を建国。霊亀元年(715)9月朔2日、元正天皇の即位式をもって国内外に日本国の首都平城京を披露しました。
遷都に際しては政教分離策をとり、新都平城京には寺院の建築も許しませんでした。遷都後、かねてより支援してきた元興寺を核として、新たな宗教政策を実施しようとしたようですが、後を腹心の太安麻呂に託し未完のまま世を去りました。
後継者の藤原不比等は、麻呂の後を追うようにわずか3年後の養老4年(720)8月3日に薨去。養老六年(722)1月20日には、忠実な配下だった多治比三宅麻呂と穂積老が、政争に敗れて配流されてしまいます。太安麻呂も養老7年(723)7月朔7日に卒去。愚帝聖武が即位して、世の中は混迷を極めていきます。
石上麻呂が建国した古代「日本」は、わずか10年余りで崩壊。
麻呂と不比等という強力な求心力あっての日本政府は、相次いだ二人の死によって存続できる力を失ったのです。
和銅(和は金と同じ価値がある)という麻呂の信念も忘れられてしまいました。

これら古代日本史の真相は、『続日本紀』を「石上」「宿奈麻呂」「三宅麻呂」「安麻呂」「日本」「寺」などをキーワードに検索。まず古代日本の歴史を俯瞰的に捉え、検索して分かった事実の流れを分析、整理することで分かります。
論より証拠、まさに百聞は一見にしかず。
100冊の研究書を読むより、まず『続日本紀』の原文テキストを上記のキーワードで検索してみてください。


平成28年(2016)2月14日 古代日本史研究会 関根 聡




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