『古事記』を読むポイント
『古事記正解』は当初、現存する日本最古の書籍『古事記』について研究、「正しく解釈しよう」とする試みでした。 その目的は今も変わりませんが、途中で頓挫。 この5年ほどは『古事記』が成立した古代日本の姿を知るために資料を集めて分析、研究をしてきました。 研究成果は、学びの駅ふぁみりあ(見附市)の古代日本史講座で発表。 受講者の協力を得て、研究を進めました。 古代史の研究には、どんな立場で何を研究課題とするか。そして何を研究の原典とし、どのような研究法を用いるかが重要です。 研究の立場は、研究内容を規定し、研究課題が不確かでは的を射ることができない。 研究のための原典を選ぶことも大切です。 『古事記』研究に選んだ原典が、本居宣長の『新刻古事記(訂正古訓古事記)』だったり、それを活字化した『古事記』であれば、まともな研究は絶対にできません。 10数年前ベストセラーになった三浦佑之の『口語訳古事記 完全版』(文藝春秋2002)などは論外です。 『口語訳古事記 完全版』は、『古事記』を素材とし、研究書を装った娯楽小説と言っていい。 三浦は博学で、読者を”知った気にさせる”才能は、詐欺師的です。 安易に読めば騙されてしまう。 例えば「高天原」の解説で、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」を持ち出す。 呆れた戯言ですが、一般受けしたようです。 とまれ。 悪口はこれくらいにして、本題に戻ります。 『古事記』とは何か? 正しく解釈するためには、『古事記』の実像を知る必要があります。 これから資料を分かりやすく提示しますので、一緒に確認していただければ幸いです。 『古事記』が編纂されたのは、和銅5年(712)。 当時の日本には、まだ平仮名や片仮名はなく、『古事記』の原文は、すべて漢字で書かれていました。 また印刷という技術もなく、本は手作り、文字は手書きされていたのです。 残念ながら『古事記』の原本は失われ、1300年前の姿が実際どのようなものだったか誰にもわかりません。 では、なぜ『古事記』が現存する日本最古の書籍と言われるのでしょうか。 それは、『古事記』の写本が残っているからです。 『古事記』写本は30を超えるといわれますが、研究によって二つの下記写本が祖本になっていることが分かっています。 一つは『真福寺本古事記』(1371-72)、もう一つは『兼永筆本古事記』(1522)。 学会では、「けっきょく、古事記の校勘をおこなうには、真福寺本と兼永筆本との二本さえありさえすれば十分であって、他の写本のごときはさして参考にする必要もなかろう」というのが通説です。 ※西田長男解題『兼永筆本古事記』(勉誠社1981)解説P-4 『兼永筆本古事記』は、大永2年(1522)に卜部兼永が書写したもの。 所々にフリガナや句読点、テニヲハや活用語尾が付けられていて、漢字ばかりの『真福寺本古事記』より読みやすい写本です。 多くの『古事記』写本は、この兼永本が祖本になっています。 『古事記』研究の主たる目的が、写本の校勘なら、西田の言に従っているだけでいいかもしれません。 また諸本の校勘は、西宮一民『古事記 修訂版』(おうふう)という他の追随を許さぬ素晴らしい学績があります。 この一冊さえあれば、他の校勘本は、まず必要ないでしょう。 問題は、どんなに詳しく校勘しようと、『古事記』の本質は分からないということです。 もちろん『古事記』の伝承史、また受容史を研究する上で、校勘という地道な作業は大切な仕事です。 しかし、『古事記』とは何か?は分かりません。 なぜか? その理由を説明しましょう。 最古の写本は、『真福寺本古事記』と呼ばれ、国宝に指定されています。 書写されたのは、応安4年(1371)から翌年にかけて。 真福寺の僧・ 賢瑜が、2代住職・信瑜の命を受け、上・中・下、三巻の古事記を書写したことがわかっています。 その写本は、どのようなものだったのか? 論より証拠。 まず上巻冒頭を観てみましょう。 |
ご覧のように『古事記』は、すべて漢字で書かれていました。 一行目には、「古事記上巻 序并」と記され、上巻冒頭に序が置かれていることが分かります。 二行目の「臣安萬呂」以下が、『古事記』の序になります。 実は『古事記』の構成は奇妙です。 先ほど「上・中・下、三巻の古事記を書写した」と書きましたが、漢籍の巻数は「巻一」「巻二」「巻三」…と作られます。 『古事記』の「上巻」「中巻」「下巻」という構成は、漢籍の規則に従っていないのです。 序も、漢籍では全巻の最後に置かれるのが通常。 安麻呂は、漢籍に通じた知識人だったようですが、敢えて漢籍の常識や文章規範を無視した観があります。 『古事記』序には偽物説もあり、序そのものが本文とは別の研究課題になります。 特に『真福寺本古事記』序は特殊で要注意。 上巻冒頭に「古事記上巻序并」と記されていますが、他の写本はみな「古事記上巻并序」と記されています。 何故でしょう? 三行目最後の「君羊品之祖」は、他の写本の記述から「群品の祖」と解するのが通説。 しかし『古事記』成立の前年、和銅四年(711)に多胡郡が置かれ、現存する多胡碑には「上野國片?郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊」とあります。 当時、多胡郡は「羊」という名の人物に管理運営が任されたのです。 私が暮らす長岡には、信濃川の辺に「品之木」地名があり、「君羊品之祖」の記述は見逃せません。 全国に「品之木(しなのき)」地名はいくつもあり、シナの木という樹木が沢山見られます。 ただし信濃川辺の「品之木」は、古くから「ボンノキ」と呼ばれていました。 新潟の蒲原(神原)は「大倭豊秋津」の地。 『古事記』の「君羊品之祖」記述を、安易に「群品の祖」と解することには疑問を感じます。 ここでは、この疑問に深入りせず、話を進めます。 次に、上巻の本文がどのように始まっているのか見てみましょう。 有名な「あめつちはじめてひらけしとき」で始まる文章。 ご自分で探してみてください。 |
右から3行目、上から5字目に「天」という漢字がありますね。 ここから始まる「天地初発之時於高天原成神名天之御中主」が、上巻本文冒頭の一文です。 序の最後は、「太朝臣安萬呂」と記されています。 『古事記』序は、「安萬呂」で始まり「安萬呂」で終わっている訳です。 序の末尾と上巻の初めには、一字の空きもありません。 奇妙ですね。 さて、もう一度『古事記』上巻本文冒頭を観てみましょう。 「天地初発之時於高天原成神名天之御中主神」の後に、何やら小さく「訓高」と書かれているのが分かりますか? この「訓高」は、次の行にある文章につながり「訓高下天云阿麻下赦比」という記述。 安萬呂による注意書きです。 「高下天」つまり「高天原」の「天」は、訓じて「阿麻」と言うと、わざわざ安萬呂が説明しているのです。 おそらく当時、「高天原」の読みは、周知の読みではなかったのでしょう。 だれしも「阿麻」と読むなら、注意書きは必要ありませんから。 そう思いませんか? ---“天”地初発之時於高“天”原成神名“天”之御中主 見なおせば、上巻冒頭の一文には、「天」という漢字が3回も使われている。 「天地初発」「高天原」「天之御中主」。 そして、なぜか2回目に記された「高天原」の訓に注意書きが記され、「天地初発」と「天之御中主神」には注がない。 何故なのでしょうか? 「天地初発」と「天之御中主」には、周知の読みがあった。 そう考えるのが妥当でしょう。 さて、ここで問題です。 『古事記』上巻冒頭の一語「天地」は、何と読むのでしょうか? 一般的には「あめつち」と読まれています。 しかし本当でしょうか? 『古事記』は、日本最古の本。 原本は失われ、最古の写本は、660年後に写されたものです。 その写本にもフリガナはつけられていませんでした。 1300年前に書かれた『古事記』の正しい読み方は、そう簡単に分かりません。 研究者は、このことを肝に銘じておく必要があります。 結論から言えば、現在の「あめつち」読みは、本居宣長の解釈に基づくもの。 宣長は、30年にわたって『古事記』を研究して『古事記伝』を著わし、『新刻古事記』という歴史的に重要な原稿を書き遺しました。 宣長の死後、この遺稿を発刊したのものが、現在『訂正古訓古事記』(1802)と呼ばれる本です。 木版で印刷され、江戸時代末期から大量に発行されました。 いわば江戸語の翻訳本ですが、後の研究者によって祀り上げられ、『古事記』原典のごとく扱われています。 『古事記』研究の大問題が、ここにあります。 宣長の読みは正しいのか? 結論を出す前に、もう少し『古事記』そのものを観てみましょう。 あまり知られていませんが、『古事記』には『道果本』(1380)とよばれる写本があります。 この写本は、賢諭の書写した『真福寺本古事記』(1371-72)と元本を校勘し、わずか9年後に道果が書き記したものです。 書写は粗雑。 しかも上巻途中で放棄されており、これまで資料的価値が乏しいとされてきました。 確かに、一見価値の乏しい写本。 けれども見方を変えると、非常に重要なことが分かってきます。 これも、論より証拠。 自分の目で、『道果本』を観てみてください。 |
『真福寺本古事記』との、決定的な違いが分かりますか? まず『道果本』には、フリガナがある。 例えば、「天之御中主」には、はっきりと「アマノ」とカタカナで読みが書かれています。 もう一つの違いは、朱墨で単語がチェックされ、句読点が打たれていること。 上巻冒頭の一文を見てみましょう。 「天地初(テ)発之(ヒラケシ)時・於高天原成(リシ)神(ヲ)・名(ニ?)天之(アマノ)御中主(ノ)神」 このような『古事記』のフリガナは、いつの時代につけられたのでしょうか? また句読点は? 道果がフリガナや句読点を発案したとは考えられません。 そもそも『道果本』は単なる写本ではなく、その形態から考え、『真福寺本古事記』と元本を比べ校正しようと試みた最古の校勘本なのです。 結果は、神代七代のところで挫折。 ここでギブアップと、長い「赤へ」で校勘放棄を表明しています。 もう一度『道果本』の上巻冒頭を確認してください。 「天地」の「天」、「高天原」の「天」には、フリガナがありません。 この時代、すでに『古事記』の「天地」「高天原」の読みは分からなくなっていたのです。 道果は、その読みを確定できず、校勘作業を途中で放棄しました。 重要なことは、『道果本』が校勘本の失敗作だということ。 そのことにより、『真福寺本古事記』の元本には、すでにフリガナや句読点が打たれていたと推定できるのです。 逆に言えば、賢瑜は敢えてフリガナ・句読点なしの『古事記』を作成したという事実を示唆しています。 何故か? 信瑜は、賢諭に命じて『真福寺本古事記』を作成、『古事記』原本の復元を試みたと考えられます。 当時のフリガナや句読点に疑問を感じたからでしょう。 二つの『古事記』写本の形態比較と分析から、歴史的事実が見えてきました。 この意味で、『道果本』の存在は重要です。 漢字の読みは、時代によって変化します。 大昔の漢字がどう読まれていたかは、簡単に分かることではありません。 安易に勝手な読みをしてはならない。 キーワードを読み違えると、歴史そのものが分からなくなります。 なぜなら、歴史とは“記された過去”のことだからです。 南北朝時代、皇室の覇権争いは祖先の由来にまで及び、『古事記』や『萬葉集』などが見直されて再研究されました。 北畠親房の『神皇正統記』(1339)。 遊行寺(藤沢)の僧・由阿による『詞林采葉抄』の献上(1367)。 真福寺(名古屋)の僧・信瑜による『古事記』原本の復元(1371-72)などは、その一例です。 しかし信瑜による『古事記』研究は復元にとどまり、読みや句読点などの解釈にまで及びませんでした。 漢字の読みは、時代や地域、使う人によって大きく変わります。 はるか昔の漢字音は、解明が困難です。 宣長は『真福寺本古事記』を元本とせず、500年後、俗伝の『古事記』を大和心で意訳。 漢意を排し、誤読・曲訳を積み重ねた物語を作り上げました。 文学的には、たぶん『古事記』原本より優れている。 全文にフリガナと句読点が施され、訓読法に独特の格調があって読みやすいのが特徴です。 研究に注いだ熱意と努力、才能には敬意を表しますが、内容に関しては問題が多すぎて、まったく信用できません。 宣長の『新刻古事記』は、よく言って超訳本、辛口なら贋作なのです。 前述のごとく『古事記』上巻冒頭にある一文中、「高天原」の「天」には、わざわざ「阿麻」と注意書きが記されています。 しかし最初の「天地」には注意書きがない。 当時「天地」には、すでに周知の読みが知られ、施注の必要がなかったのでしょう。 皮肉なことに、それ故、いまでは読み方が分からない。 ちなみに古代日本語「天」の「あま」読みは、上代日本語[yama]から語頭子音が欠落したものと考えられます。 その頃、一般的な「天」の読みは「ヤマ」だった。 私は、そう推察しています。 それでは『古事記』上巻冒頭の「天地」をどう読むか? 答えのヒントは、いまほど示唆しました。 詳しくは、『古事記正解』本論の中で詳しく論証したいと思います。 本居宣長の「あめつち」読みは、歴史的事実として明らかに間違いと考えられます。 さらに宣長は、文法的な解釈でも、多くの過ちを犯しています。 これに関しても、『古事記正解』本論で解説します。 問題なのは現在、日本で発行されている『古事記』の99.9%以上は、宣長の『新刻古事記』に準じているといって過言ではありません。 つまり正しく解された『古事記』刊行本は、いまだ一つもないということです。 この事実を信じられますか? 最後に『真福寺本古事記』3巻を俯瞰する資料を提示しておきます。 自分の目で影印を見て、自分の頭で考えてください。 『古事記』の実像が見えてくると思います。 |
『古事記』の編纂責任者は誰なのか? 序に、 ---大雀以下小治田大宮以前爲下卷 という一文があります。 「大雀」とは、仁徳天皇のこと。 『古事記』の編纂者は、聖帝「仁徳天皇」を「大雀(でっかい小鳥)」と揶揄、呼び捨てて憚らぬ人物だったようです。 小役人ではないですね。 さらに下巻では、「大集(竹藪の中でピーチクパーチク)」と茶化し、「太雀(でぶスズメ)」と仁徳天皇を笑い物にしている。 この「太雀」表記は、安萬呂自身のジョークかもしれません。 自分も肥満体だったのでしょう。 もともと「多」氏である自分の姓を、「太」と表記しているくらいですから。 と、以前は思っていました。 しかし古代日本語「太」には、「小」「集」の概念と関わる深い意味があるようです。 安麻呂は、その意味を踏まえて言葉遊びしたと考えられます。 ちなみに『寛永版本古事記』(1644)では、編者の河村秀穎が「大雀」表記を嫌い、日本書紀の「鷦鷯」表記に変えています また本居宣長の『新刻古事記』(1803)には、「大雀」に「皇帝」などと蛇足が加えられています。 間の抜けた美化は滑稽ですね。 「大雀(でっかい小鳥)」が、天皇の名として不適切であることは言うまでもありません。 このことも本論で詳しく考究します。 いずれにせよ、『古事記』が天皇家のために作られた本で“ない”ことは確かです。 また、天皇家がつくった本でもない。 内容から考え、天皇家を支える氏族伝承を語ることが、その編纂目的の一つだったと考えられます。 いわゆる野史だった。 『日本書紀』や『続日本記』は、律令政権下の正史という立場で作られています。 正史に野史『古事記』の成立が記されなくても不思議ではありません。 『古事記』は誰が編纂したのか? 天皇と臣下の関係は? 『真福寺本古事記』を正しく解釈すれば、その真相が見えてきます。 大切なのは、校勘ではなく『真福寺本古事記』自体の文章表記を研究し、その意味を解明すること。 特に上巻冒頭の「上件五柱神者別天神」表記は、見逃せません。 これほど目立つ表記は、『古事記』全巻中ただ一つ。 何故なのでしょうか? これを見過ごして、日本を語ることはできません。 『古事記』の原点は、また日本の成り立ちは「別天の五柱神」という存在にある。 そう安萬呂は、表記的に語っています。 『古事記』研究の原典は、『真福寺本古事記』でなければならない。 その内容を解明するためには、まず『真福寺本古事記』そのものを良く見て分析し読み解く必要があります。 さらに『古事記』が成立した時代背景と社会状況を知り、現在まで『古事記』が伝承され受容された理由も知る必要があるでしょう。 そのためには、まず『日本書紀』(720)や『続日本紀』(797)などを読み解かねばなりません。 また現代に至る「歴史」も紐解く必要がある。 研究の道のりは遠い…。 平成28年(2017)1月4日 「はじめに(2010年版)」に訂正加筆 関根 聡 |